ここ数日、あるSNSにて、一人の医師の発言をきっかけにして、ケアマネが救急車に同乗しないことについて、話題になっているのを目にしました。
「暇なら行けばいいのに」
そんな言葉もみかけました。
その言葉の背景に、利用者さんや家族のために、少しでも何かができたら、という思いが全くないとは思いません。
でも私は、この言い方には、はっきりと違和感があります。
私自身の考えを先に書けば、
救急搬送の場面で、救急車に同乗することは、ケアマネの役割ではないと考えています。
なぜなら、同乗したところで、ケアマネにできることは限られているからです。
医療同意はできません。
身元引受人にもなれません。
家族の代わりにもなれません。
医療の判断をする立場でもありません。
ご本人の生活状況や既往、サービス利用状況など、伝えられる情報はあります。
けれどそれは、救急車に一緒に乗らなければ伝えられないものではありません。
必要な情報を、必要な相手に、適切につなぐ。
そこはケアマネの役割です。
でも、搬送に付き添うこと自体は役割ではないと思っています。
ここは曖昧にしたくありません。
ケアマネには、担う役割と担えない役割があります。
利用者さんやご家族に関わる仕事をしているからといって、どこまでも付き添い、どこまでも背負うことが求められてよいはずがありません。
一方で、私は「シャドーワークは全部だめ」という極端な論調にも、少し違和感があります。
現場には、制度や契約だけでは割り切れない場面があります。
目の前の利用者様やご家族の不安が大きい時、少しでも安心につながれば、と役割を少し超えて動いた経験のあるケアマネは少なくないと思います。
そうした行為の中には、善意も責任感もあったはずです。
だから、私は、現場の善意そのものを全否定はしたくありません。
ただ、問題はそこから先です。
誰かがやった。
前任者はやってくれた。
前はきてくれた。
あの事業所はそこまでしてくれる。
そうやって、本来は善意だったものが、少しずつ「してくれるもの」になっていく。
そして最後には、
「やって当然」
「来て当然」
「暇なら行けばいいのに」
という圧に変わっていく。
私は、そこにいちばん大きな問題があると思っています。
善意は尊いものです。
でも善意は義務ではありません。
善意を前提に仕事を組み立てた瞬間、それはもう善意ではなくなります。
救急搬送の場面で本当に必要なのは、ケアマネの同乗ではなく、
誰が家族に連絡をするのか。
誰が医療情報を持っているのか。
誰が意思決定(代理)を担うのか。
誰が責任を持つのか。
そこが整理されていることです。
そこが曖昧なまま、足りない部分を、なんとなく「ケアマネさんが来てくれれば」で埋めようとするのは違うと思います。
ケアマネが境界線を引くことは、冷たさではありません。
できることと、できないこと。
引き受けるべきことと、引き受けてはいけないこと。
そこを曖昧にしないことは、自分を守るためだけではなく、ケアマネの役割の本質を曖昧にしないためにも必要なことです。
そのことが結果的に、すべての利用者様の公平なご支援につながっていくと思っています。
私はシャドーワークを一律に悪だと言いたいわけではありません。
前回の日記でも書いたように、現場では制度や契約の枠では割り切れない瞬間があります。
ですからその場の実情に応じて現実的な判断をしてゆくことが大切だと思っています。
でも、善意でやってきたことを、世論から、当然のように求められることには、はっきり「違う」といいたいのです。
救急車への同乗は、ケアマネの役割ではありません。
行ってもできることは限られています。
だからこそ、それを「行けるなら行けばいい」で済ませてはいけない。
それは優しさの話ではなく、役割と責任の話だと私は思っています。
善意はあっていい。
けれど善意を義務にしてはいけない。
その境界線を曖昧にしないで示していくことも、支援を続けていくうえで必要なのだと思っています。
さあ、4月も元気に頑張りましょう